2011年3月19日~
5:30に起きました。食べ物が手に入らないかもしれないので、おにぎり3つとクラッカーなどを各自持ちました。時間になっても予約したタクシーが来ず、電話すると手配ミスだと言われました。すぐに代車が来たけれど、これは焦りました(※9)。
仙台駅東口の高速バスのりばに行くと、盛岡行きのバス停は西口だと言われました。慌てて再度タクシーに乗って移動すると、ものすごい列になっていて不安になりました。2時間近く並んだので、あまりの寒さに足が痛くなりました。暇すぎで弟とハガレンの登場人物を1人ずつ言っていくゲームをしましたが、全て出し尽くしてもまだバスは来ませんでした。
ようやくバスが来始めたけれど、本当に乗れるのかずっと不安でした。いろいろな会社のバスをできるだけ集めていたので乗れましたが、補助席までいっぱいでした。高速道路は緊急車両しか入れないので、意外と空いていました。道はまだボコボコでした。
盛岡は仙台ほどではないけれどまだ悲壮感がありました。駅ビルの洋食屋さんが奇跡的に開いていたので、昼ご飯が食べられました。冷凍食品ばかりの幕の内でしたが、食材のないときにとても良心的な値段で、久しぶりにおなかいっぱい食べられました。
次のバスまで4時間もあったので暇でしたが、駅ビルの中からバス停が見えるので、暖かいところから並び具合を見張れました。駅に行くと店もそこそこ開いていて、19日発売のノンノも買えました。
バスは40分前くらい前から並びました。前日は10人乗れなかったと聞いていたのでヒヤヒヤでしたが、ちゃんと乗れたし思ったより空いていました。
青森に着くと、もう22時近かったです。盛岡よりも暖かく、悲壮感もなく、普通にまねきねこが営業していました。しかしコンビニは商品がないので閉めていたようです。無事にここまで来れたので、私はようやく愉快な気分になれました。コンビニがないので夜ご飯が手に入らず、持ってきていたおにぎりをホテルでお茶漬けにして食べました。
翌日、伊丹行きの飛行機は夜しかないので、午前中はおみやげを買い、午後は三内丸山遺跡に行きました。青森は商店街が古い感じで、たくさん写真を撮りました。また来たいと思った街です。
青森空港は節電のために暖房が入っていなくて寒かったです。夜ご飯はまぐろの漬け丼を食べました。生ものが食べられて皆うれしそうでした。搭乗口に入ると、毛布が置いてありました。りんごワッフルを買って食べました。
飛行機は揺れまくって、楽しみにしていたスープが飲めませんでした。伊丹に着くと、あまりの暑さに上着とセーターを脱ぎました。空港バスで大阪駅に着くと、駅は新しくなったばかりでとてもきれいにライトアップされていました。仙台の駅前はあんなに活気がなかったのに…と落差に落ち込みました。
祖母の家に着くともう23時でした。実に2日がかりの旅(?)でした。かくして私は兵庫に避難したのです。
水は3月22日、ガスは28日に復旧したそうです。私は4月6日の夜行バスで仙台に帰ることができました。本当に帰れてよかったです。4月17日に仙台駅に出かけたときには、活気がちゃんと戻っていてほっとしました。桜が満開で、花見をしている人も大勢いました。「桜の花びらたちが咲く頃」に戻ってこられて、本当によかったです。
※9 深刻なガソリン不足でタクシーは事前の予約が必須でした。
補足(お気持ち表明)
避難したことについては、母は友人から「私たちを見捨てるんだ」と言われたとかなんとか… 1人でも減った方が支援物資の割り当ても増えるのにね。私もどう思われていたか知りませんが、一方で、西日本に引っ越して4月下旬の始業式に来ない子もいました。正解のない考え方の違いで分断が生まれるということを初めて知りました。
兵庫では海外留学中のいとこの部屋を使わせてもらえることになり、これまでになく勉強に集中できたので、避難という選択をした両親には感謝しています。
うれしいこともたくさんありました。仙台に戻った後も、遠くの親戚や友人からお見舞いの小包や手紙が届きました。往復はがきで送ってくださる方もいました。バイオリン教室宛てに九州のお教室から文房具が届いたこともありました。生徒たちが家にある文房具を持ち寄ってくれたそうです。心配してくれる人がいるというのは、その後の日々でとても励みになりました。
気持ちの面では受験勉強が役立ちました。目の前の課題に必死になっているうちに生活を立て直せた、というのはラッキーだったと思います。あの日、津波からも原発からも遠い場所にいたことに対する罪悪感…みたいなものを少なくとも1年感じずに過ごせたのは、家族や学校が守ってくれていたからなのだと今になって思います。