案じてばかりで産めない

海外旅行とか、全然案じてないじゃんって話ばかり書いてます。

東日本大震災の記録③

3月15日~18日(電気復旧~避難前日)

次の日は隣の家の子ども2人を預かりました。食器はラップをして、ホットプレートも継ぎ足し継ぎ足しで作りました。だからラーメンに米とか高菜とかが混ざっていて、意外とおいしかったです。

ニュースが見られるようになると、父が原発のことを気にしだして、弟と2人で兵庫の祖父母のもとへ行けと言いだしました。そのとき私は録画していた歌番組を見て楽しい気分

だったのに、一気に悲しくなって毛布にくるまっていました。もし兵庫に行って最後、もしものことがあって仙台に帰れなくなったら…皆が仙台でがんばっているのに、私だけ逃げるようでつらい、などいろいろ考えてしまい、その後胃痛が続きました。

中心部に住むEさん宅はオール電化で水も復旧しているので、お風呂を使わせてくれました。約1週間ぶりのお風呂でとてもさっぱりしました。

結局、Eさんの勧めもあり、原発にかかわらず春期講習のつもりで兵庫に行き、勉強に集中することになりました(※6)。本当に仙台に帰れるのだろうかと不安になり、いくらでも泣けました。こんなに仙台に愛着があるとは思いませんでした。「桜の花びらたち」(※7)の歌詞がシンクロして、この曲は忘れられないものになりました。

山形空港のチケットが取れず(※8)、バスで仙台→盛岡→青森、1泊したのち飛行機で伊丹まで、家族4人で行くことになりまし。チケットは17日の夜中に母がとりました。

18日は慌ただしく過ぎました。私は昨日まであんなに泣いていたのに、誰よりもはやく荷造りを終えて母を驚かせました。午後は家の掃除をしました。母はとっておきの生クリームとパイ生地を使ってキッシュを焼き、隣の家にもお裾分けしました。こんな非常時にキッシュが食べられるなんて…と改めて自分は幸せだなあと思いました。隣人は「絶対帰ってきてね」と言って泣いてくれたそうです。私はそれを母から聞いて泣きました。水を入れるボトルやホットプレートはNちゃんの家に貸しました。Nちゃん親子が帰ってしまって、私はまた泣きました。夜から庭の水道が少し出るようになったので食器を洗うことができました。風呂も汚い水をすててきれいに洗い、虫がわかないようにしました。食器類はアルコールのお手拭きで消毒しました。私は庭で水を汲んだり、風呂の水を庭に捨てたりしました。

準備は整っても、私は緊張で眠れませんでした。バスは予約制でないので、早く並ばないと乗れないこともあるのです。胃痛はこの日がピークでした。

 

※8 Eさんから「中心部はもうガス以外復旧しているから予備校が普通に開いていて、みんな春期講習行ってるよ」と言われたのがショックで決め手になりました。

※7 AKB48の楽曲。ちょうどツタヤでCDを借りていて、電気が復旧してから何度も聞いていました。仙台は桜が咲くのは4月中旬なので、その頃には「希望の鐘」が鳴っていてほしい…と祈っていました。CDは1ヶ月後に恐る恐る返しに行きましたがさすがに延滞料金は取られませんでした。

※8 仙台空港津波で甚大な被害を受け閉鎖されていました。