案じてばかりで産めない

海外旅行とか、全然案じてないじゃんって話ばかり書いてます。

東日本大震災の記録②

2011年3月12日~14日(電気が復旧するまで)

朝起きると、すでに皆起きていて、そのど真ん中で寝ていたので恥ずかしい思いをしました。先生が石油ストーブでインスタントラーメンを作ってくれました。これはある先生が自宅から持ってきてくれたものでした。昨日はとても寒かったので、あたたかいものを食べられて生き返りました。朝になって道路が空いたので、多くの人は親の迎えで帰ってしまいました。私はまだ連絡が取れませんでした。停電で光回線使えなくなってしまったためでした。SくんやH先生がケータイを貸してくれましたがだめでした。いつまでも学校にいるわけにもいかないので、親が迎えには来れないが連絡の取れた生徒をK先生が車で送ることになりました。私は一度家に行ってみて、誰もいなかったら学校に戻るということで、車に乗せてもらいました。

家に着くと、雨戸を開けて私の帰りを待っていてくれていました。近所の中学生のNちゃんも親が帰れなかったので私の家にいました。先生に送ってもらえて本当に助かりました。このときはあまり思わなかったけれど、後でガソリンがすごく不足したので、先生の家族にも申し訳ないことをしてしまったなあと思いました。

家は石油ストーブがないので学校よりも寒くて、学校にいた方がよかった…と少し思いました。昨晩眠れなかったので、昼寝をしました。その間に母とNちゃんが中学校に水をもらいに行きました。

母が地震直後から風呂に水を貯めていたので、トイレを流すのは苦労しませんでした。水は茶色く濁っていて、その後断水したそうです。

カセットコンロを用意していたので、あたたかいものは食べられました。何を食べたかは詳しくは覚えていないけれど、土鍋で米を炊いた日もありました。久しぶりのお米は非常においしかったです。町内の炊き出しにも行きましたが、とても排他的で嫌な思いをしたので、自力で食べていくことに決めました。あれではなんのための町内会なのかわかりません。

電気がないので、夜7時には布団に入りました。リビングの棚のないところに布団を敷き、皆で寝ました。余震でいつ外に出るかも分からないので、フリースとコートを着込みました。スリッパも枕元に置きました。ラジオは一晩中つけっぱなしでした。

テレビがないので情報はほとんど入らず、その分恐ろしい映像も見ないので、生活に専念することはできました。

備蓄の水が尽きかけると、児童センターの水道が出ると聞いて、朝6:30から弟が並びましたが、8時に私が交代して、水をもらえたのは10時頃でした。給水車が各団地に来るようになったのはもっと後のことで、遠くの小学校までもらいに行ったこともありました。生活用水は雪の降った日に、積もった雪を浴槽に入れて溶かして使いました(※5)。

カセットコンロのガスボンベも尽きかけていたので、隣の家の人と、庭でバーベキューをしました。前日には隣の家の小1・年中と一緒に公園に薪になりそうな木を拾いに行き、3時くらいに用意を始めました。冷凍庫がまだ凍っていたので冷凍の肉を焼き、玉ねぎ、じゃがいもなども焼きました。皆でわいわいとごはんが食べれて幸せでした。その日、隣の家の人は既に電気の通った職場(病院)に炊飯器を担いで徒歩で行き、うちにもご飯を分けてくれました。そして職場で充電したケータイを貸してくれたので、ようやくおばあちゃんに電話することができました。

18:30に布団に入ってうつらうつらしていると、隣の家の人が窓を叩きました。何事かと思ったら…「電気通ったよ!!」。街灯がついていました。うれしすぎて、玄関でで「やったー!」と一緒に叫びました。これが確か3/14のことです。ブレーカーを上げると、久しぶりに家の中が明るくなりました。この日から電気ポットでお湯を沸かしたり、ホットプレートで調理できるようになったので、ずいぶん便利になりました。気分も明るくなってバイオリンを弾きました。

 

※5 放射性物質をたくさん含んだ雪だったことでしょう。ラジオは給水車や避難所の情報ばかりで、原発の情報はあまり入ってきていませんでした。